Mag-log in食堂を出ると、雨は上がっていた。
駅前の歩道には水たまりが残り、街灯が細長く映っている。迎えの車まで、征臣と並んで歩いた。「さっきの話ですが」 私が言うと、彼の歩幅が少し遅くなる。「調査が終わったあとも、という話です」「覚えている。俺も、さっきからその話をしたかった」「……私、契約がなくなっても、あなたと会いたいです。こういうふうに」 口にしてから、これでよかったのか急に分からなくなった。視線を水たまりへ落とした。 征臣はすぐに立ち止まった。「澪」 名前を呼ばれ、胸が熱くなる。 彼が何か言おうとした時、スマートフォンが鳴った。 彩花さんからだった。 研究棟の警備記録が予定より早く切り替わり、紗英と連絡が取れない。地下搬出口には、財団の車が二台入ったという。「罠かもしれません」 電話の向こうで彩花さんが言う。 征臣の顔から、さっきまでの迷いが消えた。「食堂を出ると、雨は上がっていた。 駅前の歩道には水たまりが残り、街灯が細長く映っている。迎えの車まで、征臣と並んで歩いた。「さっきの話ですが」 私が言うと、彼の歩幅が少し遅くなる。「調査が終わったあとも、という話です」「覚えている。俺も、さっきからその話をしたかった」「……私、契約がなくなっても、あなたと会いたいです。こういうふうに」 口にしてから、これでよかったのか急に分からなくなった。視線を水たまりへ落とした。 征臣はすぐに立ち止まった。「澪」 名前を呼ばれ、胸が熱くなる。 彼が何か言おうとした時、スマートフォンが鳴った。 彩花さんからだった。 研究棟の警備記録が予定より早く切り替わり、紗英と連絡が取れない。地下搬出口には、財団の車が二台入ったという。「罠かもしれません」 電話の向こうで彩花さんが言う。 征臣の顔から、さっきまでの迷いが消えた。「予定を中止する」「でも、紗英さんが中に」「彼女自身が誘導している可能性もある」 私は鞄の中のB3の鍵へ触れた。 母が隠したものが今夜移されるかもしれない。「私は行きます」 征臣がこちらを見る。「一人では行かせない」「一人で行くとは言っていません」 言葉が少し強くなる。 彼は数秒黙り、警備担当へ指示を出した。 好きだと言う前の時間は、そこで終わった。 車へ乗り込む直前、征臣が私の手を取った。さっきの話は中断したままだ。指の力だけが、少し強かった。「戻ったら、さっきの続きを聞かせてくれ」 私は頷いた。「戻ったら」が、車のドアが閉まっても耳に残った。 車の中では、誰も続きを聞かなかった。秘書が無線の音量を落とし、ワイパーがフロントガラスに残った雨を一度だけ払った。 秘書は地下への経路を確認し、警備担当は無線を調整している。私と征臣の間にある言葉だけが、場違いに温かかった。 研究棟
地下へ入る前、征臣は研究棟から二駅離れた洋食店へ車を止めさせた。 ホテルの個室でも、鷹宮邸の会議室でもない。磨りガラスの扉に、色褪せた文字で店名が書かれている。「ここで待機するんですか」「まず食事にしよう。君と来てみたかったんだ」 約束の時刻まで一時間あった。 窓際の二人席へ案内される。征臣は椅子を引きかけ、途中で手を止めた。私の顔を見て、戻すべきか迷っている。「椅子は引いてください」 ようやく動いた手に、少し笑いそうになった。 座ってから、披露宴の席次表を思い出す。あの日は、椅子ではなく名前ごと別の場所へ移されていた。「嫌なのは、親切じゃないんです」 征臣が向かいへ座る。「分かっているつもりだった」「私も、まだ全部は説明できません」 メニューを開き、オムライスを選んだ。父に子どもっぽいと言われ、家では頼まなかった料理だ。 征臣も同じものを指す。「合わせなくていいですよ」「いや、一度食べてみたい。実は、初めてなんだ」 思わず顔を上げた。「本当に?」「ああ。家では出なかったし、頼む機会もなかった」 運ばれた卵へスプーンを入れると、湯気とケチャップの甘い匂いが立った。征臣は一口食べ、眉を寄せる。「嫌いですか」「思ったより甘いな」「残します?」 皿を見たまま、もう一口食べた。「食べる」 大きな事件の前なのに、料理はただ熱く、ケチャップは少し甘い。その普通さに、肩の力がわずかに抜けた。 契約条件を決めた時、私たちは長い机の両端にいた。今は、肘を少し伸ばせば相手の皿へ届く距離にいる。「調査が終わっても」 スプーンを置く音がした。「……こういうところに、また一緒に来てくれますか」 征臣はすぐには答えなかった。店員が隣の卓へ水を置き、厨房で皿が重なる。「もちろん。また二人で来よう」 短い返事だった。「次は、あなたの好きなお店も教えてください」
翌朝、写真は記事になった。 〈白鳥家を捨てた令嬢、次は幼馴染弁護士へ〉 同じ傘へ入る私と蓮だけが切り取られ、駐車場で待っていた征臣は画面の外へ消えている。 本文には、契約婚約がすでに破綻し、高城蓮が新しい後ろ盾になったと書かれていた。「削除申請を出します」 相沢が端末を受け取ろうとする。 私は画面を離さなかった。 幼馴染であること。傘へ入ったこと。婚約が契約から始まったこと。並んでいる事実の中で、私が何を言い、何を選んだかだけが抜けていた。「訂正を出したいです」「婚約継続を明記しますか」「そこは、記事への返事として決めません」 窓際にいた征臣の顔が少し硬くなる。「高城弁護士を訪ねたのは調査のため。生活上の判断を、白鳥家にも鷹宮家にも委ねていない。それだけ書きます」 相沢は一度、征臣を見る。征臣は何も足さなかった。 蓮から電話が入った。旅館の前にも記者が来ているという。「俺が話す。澪ちゃんは出なくていい」「私の名前の記事です」 受話口の向こうで、短い沈黙があった。「……君の文を先に出す」 訂正文を公開すると、反応はすぐ二つに割れた。堂々としている。男を選び放題だ。どちらの言葉にも、私の仕事も、母の事件も入っていない。 それでも、記事の下に自分の文章が残った。 夕方、紗英からメッセージが届く。 〈今夜、予定通り地下へ。記事は父が出させました〉 掲載媒体は、白鳥家の記事を最初に出した会社と同じだった。相沢が広告出稿を辿ると、仲介会社の先に榊原財団の広報費がある。「鷹宮側を調査から外すためでしょう」 彩花さんが画面を指した。 私と征臣の関係が私的な醜聞になれば、提出する証拠も恋愛感情による報復として扱いやすい。蓮まで加われば、話はさらに散る。 通話を切ったあと、コメント欄を開いた。 〈幼馴染なら最初からそちらを選べばよかった〉 〈御曹司を利用しただけ〉 〈妹と同じ〉 最後の
研究棟へ入る前日、朝から雨が続いた。 B3の鍵を使うには、紗英が警備記録を一時的に止める必要がある。連絡は、鍵に結ばれていた小さなタグへ届いた。 〈明日、午後八時。搬出口〉 それまで私は、高城旅館で宿帳の複製を確認していた。 帰ろうとした頃、雨脚が急に強くなった。征臣の車は渋滞で遅れ、蓮が玄関で青い傘を開く。「裏の駐車場まで送るよ」 曲がっていた骨は直されていた。「修理したんですね」「鷹宮に『いつ壊れてもおかしくない』って言われたからな」 二人で入るには少し狭い。肩を濡らさないよう寄ると、蓮が歩幅を落とした。傘の縁から落ちる雨が、石畳へ細い線を作る。「昔も、こうやって歩いたな」「覚えていません」「分かってるって」 即座に返したあと、蓮は持ち手を握り直した。「思い出せって意味じゃない」 雨音に言葉が削られ、続きが聞こえにくい。「鷹宮のところが苦しくなったら、旅館へ来ればいい。部屋はある」 優しい申し出だった。 なのに、胸の奥がわずかに固くなる。傘の下で逃げ場が狭くなったように感じた。「蓮さん」「何だよ」「今は……旅館に戻るって決めたくないんです」 足音が止まる。 蓮の肩から雨が落ちた。「そういうつもりじゃなかったんだけどな」「分かってます」 その先がうまく続かない。傘の端を少し自分の方へ引いた。「だから、断りにくいんです」 雨粒が一つ、手の甲へ落ちた。「部屋は、自分で探したい」 蓮はしばらく何も言わず、また歩き始めた。「……悪い」 謝罪は雨へ混ざり、私も返事をしなかった。 駐車場の入口に、征臣が立っていた。傘を持っているのに差していない。黒い上着の肩が雨で濃くなっている。 蓮と同じ傘の下にいる私を見ても、表情は変わらなかった。「待たせたな。濡れていないか」 それだけ言い、自分の傘を
鷹宮邸へ戻ると、高城家のアルバムから見つかった写真の複製が届いていた。 仮眠所の前に、母と私、蓮の父親が立っている。十歳ほどの私は青い箱を抱え、カメラではない方向を見ていた。 箱の蓋には銀鈴の図案がある。「母は、これを最後まで持っていたんですね」「事故のあと消えた。親父は、菜月さんが別の車へ移したと思ってた」 蓮が写真の端を指す。 黒い車の一部が写っている。鷹宮家が当時使っていた車種とよく似ていた。「見ているのは、征臣じゃないか」 顔を上げると、征臣は長く写真を見ていた。「俺は、この場所を覚えていない」 彼にも、記録に残っているのに自分の中にはない時間がある。「会っていた可能性はあります」「君は、あの男のことを覚えていないのに、俺の鈴は覚えていた」「音だけです」「それでもいい」 返事が早く、蓮が鼻から息を吐いた。「子どもの記憶で張り合うな」「張り合っていない」「今の間は何だ」 二人の声が少しずつ強くなり、私は写真を封筒へ戻した。「静かにしてください。紙が曲がります」 蓮が口を閉じ、征臣は封筒の角から手を離した。 その夜、青い箱の部分を拡大すると、蓋の隅に三桁の数字が見つかった。 三一一。 母のメモにあった〈三〉と〈十一〉が、一つの番号に見える。 同じ数字は、母の診察券の裏、療養施設の面会記録、高城運送の古い給油票にも残っていた。一つずつでは意味のない数字が、母の最後の数日の周囲へ集まっている。 彩花さんが旧システムの画面を復元した。「三一一便。通常表にはない臨時便です」 運転者欄は高城和臣。積荷は医療資材。ところが、車両番号は高城運送の所有車ではなかった。「名義だけ使われた」 蓮の声が低くなる。 写真の端の黒い車と、番号が一致した。鷹宮家の車に似ているが、実際には榊原財団の役員車だった。 征臣は写真を拡大し、黒い車の窓へ目を凝らした。「俺がいたと思ったのは、違うかもしれ
蓮の父親が残した音声は、二つの機器に分かれていた。 一つは事故車から回収された車載録音の複製。もう一つは、事故後に言葉が出にくくなった父親が、忘れないために吹き込んだ留守番電話だった。 警察官が保全番号を読み上げ、車載録音から再生する。 ドアが閉まる音。荒い呼吸。風の向こうで、母らしい声がした。 〈澪には、まだ言わないで〉 男が何か返す。言葉は風切り音に潰れ、数秒後にエンジンがかかった。録音は、大きな衝撃の直前で切れている。 蓮の膝の上で、拳が固くなった。 次の機器へ切り替える。留守番電話の声は掠れ、言葉と言葉の間に長い呼吸が入る。 〈菜月さんを、裏から出した。青い箱を抱えてた〉 〈紗英さんが追ってきた。止めるためだと言った。信じていいか、分からなかった〉 〈男もいた。顔は見てない。K先生と呼ばれてた〉 神谷圭介。 三〇二号室の青い紙に残っていた、県医療監査室の担当者。 音声の最後には、事故車についての記憶もあった。 〈ブレーキは、宿を出る前に見た。異常なかった。海岸道路で利かなくなった〉 当時は整備不良とされた。車は廃車、部品も残っていない。 再生機が止まっても、蓮はすぐには顔を上げなかった。「親父は、ずっと自分のせいだと思ってた」 机に置かれた指が、録音機の角を押している。「菜月さんを助けられなかった。会社も潰した。俺まで怪我させたって」 口の中に幾つか言葉が浮かんだ。あなたのせいではない。お父様は助けようとした。どれも、今の蓮へ渡すには軽かった。「お父様は、母を車へ乗せてくださったんですね」 ようやく、それだけ言った。 蓮の目が上がる。 母は車へ乗る直前まで、私を巻き込まないよう頼んでいる。守ろうとしたのだと分かる。 それでも、胸の奥には別のものが残った。「母に、腹が立ちます」 声にすると、蓮が少し目を見開いた。「何も言わずに行って。私には、何も選ばせなかった」 亡くなった人へ向けるには、遅すぎる怒りだった。だ